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「心得」とは、何ぞや

まだ駆け出しのころ、グループ展に出品していた抹茶碗を何度も裏返し見ている近所の茶道具屋さんのご主人がおられた。褒めていただけるのかと思っていたら「お茶は習ってるの?」と聞かれ、「いえ、まだ」と答えたら「お茶の心得もないのにお茶碗作ったらあかんわ」と言われ、しばらく説教が続いた。
京都人特有の嫌味な言い方に少し腹も立ったが「そりゃそうだな」と納得することもあり、心得のある母親に相談した。今は作る方に専念したらと言われたものの、駅前にある新聞社主催の文化教室を見つけ、申し込んだ。最初は夕方のコースだったが、仕事で中々行けないことが多く、朝のコースに変更した。
夕方のコースは仕事帰りの若い方も多く楽しい雰囲気だったが、朝のコースは着物を召した高齢のご婦人ばかりで男は私一人。新聞社主催のためか先生も上層部の方で、年に二度ほどは宗匠もお越しになり、習っておられるご婦人たち全員がそれぞれに生徒さんを持つ先生方だった。とんでもないところに入ってしまったものだ。しかし、皆さん優しく丁寧に教えてくださった。しばらくして師に「お茶を習い始めました」と自慢げに報告したら「お茶って習うものか?」と返された。

ある時、初釜で宗匠がお越しになり、私の緊張と正座のしびれを察知されたのか「どうぞ足を崩してください」と言っていただいたが、そこは我慢。私が余程もじもじしていたのか二度三度「どうぞ」と言われたものの、京都人は三度目までは我慢。四度目で宗匠自らあぐらをかかれ、もう一度「どうぞ」と言われた。お言葉に甘えて足を崩すと、すーっと血が通いお稽古をじっくり見聞きすることができ、ほっとして宗匠を見ると「うん、うん」と笑顔で頷いてくださった。耐えている姿が見苦しく、美しくなかったことは反省している。
しかし、そのあとが地獄だった。稽古が終わると優しかったご婦人の皆様が豹変し、こっぴどく叱られた。だが、二時間も三時間も正座ができるほど私の足の血管に心得はない。それから暫くして仕事も忙しくなり、とうとう辞めてしまった。

その後、色んな茶人さんに会い、茶道の奥深さを感じる度にもう一度しっかりと習い直したいなぁと思うこともあるのだが、あの時のように嫌な思いをすることもあり躊躇してしまう。
近所で作陶している茶道具の名家の方々の中には、とってもフランクで気安く話せる方もいらっしゃるのだが、常に上から目線の方もおられる。

四回も「どうぞ」と言っていただいた宗匠の真意は何だったのかと事あるごとに考えてしまう。
加えて師が「習うものか」と言われたのは、果たしてどういう意味だったのか?
茶道に「道」とつく限り、お茶を通しての精神の修行でもあるのだろう。やきものにおいても陶道というのがあるのなら、私は昔も今もまだ修行をしている身に違いない。
あの宗匠の笑顔は「真の笑顔」だったと今でも信じている。
最近も若い陶芸家に向かって「お茶の心得がないのにお茶碗作ってるの」と蔑んでる人がいた。
いったい「心得とは何ぞや?」と改めて問いたい。

「心得」とは、何ぞや
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