「教える」と「育てる」は違う
答えを示すか示さないかということかもしれない。
40年ほど前、覚悟を決めて弟子入りをお願いに上がった際、師から「君に教えることは何もない。お父さんが全て知っている。会社勤めの家で育った子には教えないといけないことがあるが君は違う。やきものを作ることは自分自身がいかに努力するかのみ。教えてできるなら修行はいらんやろ」と言われ、いきなり独立を勧められた。
父親と一晩考えた上でそうすることにした。前向きに受け止めた。それからは誰に教わることもなく、がむしゃらに作り続けた。今思うと、現在当たり前にしていることはもしかしたら、常識でないことをしているのかもしれない。オリジナルといえばそれまでだが、教わることがなかったお蔭でオリジナルが生まれたのかもしれない。小中高や塾や専門学校ではずっと教わってきたが、社会に出て先輩から仕事を教わったわけではない。
よく修行で「見て盗め」というがそのことを実感したのは、私がお弟子さんをとってからである。
私が教えてもらえなかったために苦労をした経験から、お弟子さんたちには手取り足取り教えた。指先のミリ単位の動きや、手首の返し、ヘラの角度の動き等々。でもできない。当たり前である。それですぐにできるなら修行はいらない。そしてやっとできるようになった時には私と同じテイストになってしまっていた。
「あれ?」と思ったときに、私らしいスタイルはなぜ生まれたのだろうと思った。
「教わってないから」だった。
幾度となく作品を見てもらいに師のお宅へ伺ったが、作品の評価は、いいか?悪いか?だけで、時には何の評価もなく梱包をほどいた瞬間の表情だけで判断しなければならないこともあった。形や釉薬のことなど具体的な改善の教えはなかった。こうすればもっと良くなるのにという答えはわかっておられたと思うが、それをお聞きすることはなかった。持ち帰ってから新たな苦悩の日々が始まり、また改良していった。
若い方に答えを言って上げるのは簡単だが、言わないで見守ることは大変なことである。
短期的に結果を出すために答えを欲するのはよくわかる。それを言ってあげると感謝もされるだろう。
しかし、教える教わるの関係は基本のところまで。その先は教わらないという姿勢も大切かなとも思う。
私を育ててくださった師や兄弟子達には感謝しかない。