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京都でやきものをするということ

私の生家は代々「五条坂」という京焼・清水焼の中心地で陶器商を営んでいた。
京焼の高級品だけではなく全国の産地から仕入れていたが、京都向きの器が中心で、瀬戸、多治見から量産品の土もの、有田や伊万里、波佐見からの磁器などある程度限られていた。個性の強い九谷焼や砥部焼、薩摩焼などは扱っていなかった。それに信楽や備前、萩、唐津のような土ものも仕入れてはいなかった。作家物や茶道具も少しはあったが専門ではなかった。

何の興味もなく作る世界に入ってきたときは、家の陶器がやきものの全てだった。学校に行き、初めて知るジャンルのやきものと出会った。信楽、備前、唐津などの土ものの味わい。陶芸作家という存在。オブジェというもの。中国や朝鮮のやきもの。芸術という世界や芸術大学の存在。ほんとうに何も知らなかった。

京都では小売り、問屋、窯元の住みわけという暗黙のルールがあり、その仕組みが京都のレベルを支えてきたことも知った。小売りの息子がやきものを作るなんてことはご法度で、友人の窯元のおやっさんから「小売屋のボンはわしらの陶器を沢山売ってくれることを考えてたらええねん。降りてこんでもええねん。馬鹿にしとんのか」とよくいわれたもんだった。私の父は先見の目があったのかどうか、これからの時代は他産地と同じように製造直売でお客様のニーズを即反映して作ることも大切と考え、私を作る道に導き、店の奥で工場長になって欲しかったようであった。

しかし、私は父の意に反して陶芸家という道を選んでしまった。小売りと窯元ならタッグを組めたのだが、小売りという商売人と陶芸家という世捨て人とは交わることはなく、父親が亡くなる間際まで大喧嘩の繰り返しだった。いつも父親の最後の決めセリフは「所詮売れてなんぼやろ。霞喰って生きていけんやろ」だった。
これに対して「その通り」と思う方と「そうじゃないんだよなぁ」という方と二手に分かれると思われるが、
「そうじゃないんだよなぁ」派は確かに続けていくには根性がいる。
最近の若手の陶芸家と話していると、「その通り」派が多数である。

私は喧嘩をしながらも、葛藤の中で「その通り」派をこっそりと頑張ってきた。
父が最期まで押し通してくれたことには、今思うにとても感謝している。父の葬儀のあとで父の友人から聞いた話だが、私が陶芸家を目指したときに父に言ったことがあると。「富の字がつく陶芸家さんは、富の下の田をいくつも売らはったらしい。覚悟せなあかんで」と。

京都でやきものをすることは、なかなか色々と大変である。
京焼といえども様々なジャンルがある。土産物、リビング系、割烹食器でも板前割烹や大箱の京料理店や江戸前風、中国・朝鮮の写し、仁清・乾山風、茶道具、煎茶、華道等々。
作家でも日展や工芸会の会派、オブジェでも芸大系でも各大学に特色があり、無所属という派、現代アート系、一匹狼派 等々様々あり過ぎる。皆がそれぞれで、作り手たちは府や市や町という枠ではまとまらない。
そのうえ、陶器店やギャラリー、骨董屋さんが絡まって来ると尚更にまとまらない。
しかし、それが京都の良さであると最近しみじみ思うようになってきた。
少し前だが、ある長老の先生は、「まとまる必要はない。それが京都なんだ」と仰っていた。

京都でやきものをするということ
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