壺作るのは上手になったけど、徳利の口は品がないな
20代後半の頃だったか、近くに住む割烹食器専門の問屋の大将から言われた一言である。
その方は地域の役などをやられていて幼少の頃からよく知っていた。私のグループ展か何かを見られての通りすがりの一言だった。
江戸時代に始まる初代の父が壺造りの職人だったことから私の家の屋号に「壺屋」とつくことや、師も壺の名人であり、公募展に出品するために当初から壺ばかり作っていた。おそらく同年代の仲間の中でも壺作りにかけていた時間は圧倒的に長かったと思う。壺の口作りには相当苦労したけど、食器である徳利の小径の口づくりにそれ程拘ってはいなかった。なめし皮で綺麗なアールにするだけだった。ましてやそんなに数も作っていなかった。
口に品がない? やきものに品や格、色気が必要であることは当初から気にしていたが、それは時間が経つにつ
れ結構ささってきた。たくさんの徳利を見に行った。確かに品のないものが多く存在するのは理解した。
しかし、上品な口とはなんぞやがわからない。名品とよばれるものや、有名な陶芸家、備前の徳利、京焼の最高のものなどをみても良いのは良い。しかし...。それ以来、徳利が作れなくなってしまった。20年ぐらいほとんど作っていなかった。最初はトラウマで作れなかったが、だんだん作ることすら考えなくなった。個展の時も冷酒ブームもあってか片口ばかり作っていた。しかし、最近やっと徳利を作り出した。壺は若い時から誰にも負けないぐらい数を作っていたため合格レベルの評価であるが、この仕事はいかに歳を重ね技術を身につけても作ったことのないアイテムについては初心者と同じである。
抹茶茶碗は若い時に作ったらダメという考えの団体があったが、そこに所属の作家さんが高齢になってから発表された茶碗の酷いこと。他の作品はよいものを創られるのに。そうはなりたくない。そんな個展を見てしまったことがきっかけでもある。まだ間に合う筈だ。