普通のなんでもない物を作るのがいちばん難しいんや
師の言葉である。やきものの仕事は大きく分けると二つ。加飾の仕事と瞬間芸になる。細かな象嵌や微細な絵付けや器体の表面を丹念に削り落とすなど時間の掛かる仕事と、瞬間的な轆轤の技や削りの土味などを見せる技術などで、私の仕事は後者に属する。切子と吹きガラスのようなもの。漆の仕事は前者。人形は最後の目を描くところ以外は前者といえるだろう。
日本の伝統工芸は、ほとんどが前者かな、とも思われる。しかし、やきものの産地の中で有田、九谷、薩摩などは前者であるが、信楽、丹波、伊賀、備前、萩、唐津、瀬戸、多治見などは後者であり、日本の焼き物の魅力の一つでもあるのかもしれない。昨今の陶産地でない都会での仕事には前者が多く、時代の流行となっているようにも感じられる。このことは、大層にいうと人の生き方にも通じるのかなとも思う。
私は京焼を販売する店で育ったせいか、最初にやきものの世界に入ったときは、細かな絵付けや、繊細な細工に憧れた。技術の極みのようなものに憧れ、そんな技術を身に着けたいと思った。それこそがこの世界のすべてと思っていた。
しかし、やきものの学校に行って二年目ぐらいから、それまで知らなかった他産地の仕事や、陶芸家の存在を知り、後者の仕事の魅力や、陶芸家たちの焼き物に込められた表現などを見て興奮し、身震いするような作品に出合うことがあった。決定的だったのは師の轆轤をはじめて見たときだ。それまで轆轤の名人と言われている職人さんたちの仕事場へは幾度となく勉強に行っていたが全く違うものだった。土が生き物のように見えた。轆轤を終えて切糸で切り板の上に置かれたまだ生の茶碗が、すでに完成していて、どこをとっても細工の必要がなく、柔らかく、温かく、力強く、風格に満ちていた。「なんだこれは。なんなんだ。技術?テクニック?」たった数十秒の間にに込められた見せ所の多い技に驚愕した。「目が点になる」、傍からから見ればそんな状態だったと思う。
やきものの学校に二年通い、大概のものは「作れる」自信があったのですぐに轆轤に土を添えて作ってみたが、いくら作ってもそうはならない。ただの器物で、綺麗に、薄く、端正にはできても何の感動も得られなかった。上手に仕上げをして、オリジナルではあるが万人受けするような綺麗な釉薬をかけ焼成しても、安っぽく見えて心震えるものは何もなかった。やきもの屋の子せがれに生まれたおかげか、店で良く売れるものは感覚的にはわかっていた。だから当初から何を作ってもよく売れたし、逆に売れるものしか作らなかった。
この技術の違い、はたまた人間の器の違いなのか、自分の力のなさに悩み苦しんだ。そんな私を見てかどうかは今となってはわからないが、師から言われた言葉がこれである。だからどうしろとは何もなく、その後も答えはなく、ただ一言だけ「それがいちばん難しいんや」と。
それから約40年たった今、思う。師も悩み苦しまれた時があったのだろうか?と。天才といわれた方でもそんなときがもしあったのなら、私のような凡才は常に意識を持って作りまくり、人としても磨き上げないと、あのような仕事には近づけないのだろうと思い、土に向かってきた。それが答えなのかもしれないが、私の目指す仕事はそこが終着点である。